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日本に蓄音機が(当時は蘇音器とよばれていた)紹介されたのは明治11年(1878年)末です。エジソンが1877年に開発してからそう時期をおいてはいません。明治22年には駐米公使陸奥峰光が農商務大臣井上馨に贈っているし、翌23年にはエジソン自身が駐日アメリカ公使を通じて命じ天皇に献上しています。
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(エジソンの写真です)

にっほんに初めて紹介されたレコードは蝋管ですが、これが一般に輸入されたのは明治29年かた、32年には浅草六区の三光堂が、耳管を使い、5~10銭をとって聞かせています。36年には平円盤レコードが輸入され、41年に日本国内で平円盤レコードの政策が開始された折に「レコード」名付けられました。

関東大震災後に輸入税が課せられた中で「レコード」もありましたが、日本では海外のレコードの販売権を持っていた業者側が、自ら国内で生産することの得策に思い至り会社が設立しました。その間のいきさつは略しますが、日本コロンビア蓄音機株式会社、後にコロムビアマークにあらためる。日本ポリドール蓄音機商会、日本ビクター蓄音機株式会社、続いて昭和5年には講談社を親会社として生まれたキング・レコード、9年に奈良に創設され、翌10年東京に進出したテイチク・レコードと合わせて5社が、レコード産業のシェアを分かち合う形になります。

むろん、昭和初期のレコード会社はこれだけであったと言うことではなく、いろいろありましたが、タイヘイレコード以外はいづれも 生命が短かったのです。

ともあれ、こうした近代的なレコード会社は、かつての演歌のように巷からの自然発生的なヒットとは異なりはじめから売れる物の生産を目指すことになります。

その国産レコード最初は、日本ビクター盤で「浮波の港」や「出船の歌」のように、セミ・クラシックあるいは民謡調の香りのただよう作品でした。
「浮波の港」は時雨音羽の『婦人世界』(大正12年6月号掲載)に発表したものであり、時雨音羽が大正14年創刊『キング』に「朝日をあびて」の題名で発表した詩であり、「鉾をおさめて」は『キング』の大正15年新年号にやはり時雨音羽が「金扇」の題名で発表した作品で、ともに新民謡運動の中から生まれたとされています。

流行歌らしい最初のヒットは、昭和4年6月に発表された、当時の蓄音機の普及率から考えれば驚異的な25万枚という売れ行きで大ヒットしたのが、『東京行進曲』(西条八十作詞、中山晋平作曲)でした。
そしてこの「東京行進曲」には流行歌というものの特質が見事に包含されていると言われています。次回はこの「東京行進曲」をめぐってさらに書き進めたいと思います
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今日の名言-立原道造

「傷ついた、僕の心から
棘をぬいてくれたのは おまえの心の
あどけない ほほゑみだ そして
他愛もない おまえの心の おしゃべりだ」
(立原道造『立原道造詩集』「朝に」104より)

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水量(現代詩)

川幅は見えないが
人と
人の、間にも
深く浅く流れている水量があれば
そのめぐりで
孤立するひとや
孤立を観念するひと
それが川のせいかどうか
耳を澄まして川かさを聞くばかりだった

小さな波立ちにさえ心を痛めるやさしいひとは
そちらの世界に足を踏み入れているひとだ

流れるものは変わりやすくて
一夜にして世界が一転する

分かったことを言うな!、
と、きみは、強すぎて折れやすい柿の木の枝のように
人と
人の、間にこそ
つぶしたいと思う
あの頃は、泡沫どもの闇が流れていたのだったか

仕掛けられた網の目を
逃れるのは魚ばかりではなかったが


20140515135742 田中

この写真はイメージの河の写真にすぎません。
演歌が民衆に中に活路を見いだしながら労働者の開放の歌声には発展することがなかったのはなぜでしょうか。

いくつかの原因が考えられますが、一つには職業化してしまったことが上げられます。運動の中心になっていた演歌壮士の人たちは、運動の衰退と共に運動をはなれて職業化していきましたが、川上音二郎の出現を堺としてそれは急速に俗流化の方向をつよめ、それまでのエリート意識から大衆通俗に落ち込んで行ったようです。その頃になると演歌は自由民権の壮士の手をはなれ、苦学生のアルバイトとして職業かされてしまい、いわゆる書生節になってしまいました。

政治の大衆化の手段として生まれた演歌が、やがてその形式の大衆化のゆえに形式が先行して手段が形骸化してしまい、その内容が欠落していくという、今日でもしばしば見られる経過をここにも見ることが出来ます。
更にもっと重要なことは職業化していく過程でその演歌の特徴としていた政治的な立場をいつの間にか見失ったことも上げることが出来ます。

更に音楽的には、明治政府の政策によって発展を阻害された庶民の音楽とおなじよう(民謡、俗謡)に衰退と圧殺の道をたどらざるを得なかったのではないかと思います。
しかしいかにに専制政府でも音楽を根だやしにすることは出来なかったのも事実でしょう。大正期の添田唖蝉坊のなかに、また昭和の石田一松のノンキ節のなかに、その伝統が受け継がれて行ったのだと、言うことができるでしょう。
ここでその後の歌を紹介しておきます。
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(石田一松、タレント議員第一号)

●富の鎖り

富の鎖りを解き棄てて
自由の国に入るは今
正しき 清き 美しき
共よ手を取りタツは今
(中略)
迷信深く地に入りて
拓く難き茨道
毒言辛く襲うとも
毒手苦しく責むるとも(以下略)


●思いでいづも

習わぬわざの牧場もり
 草のいおりの起きふしに
人のなさけのうす衣
 うき世の風ぞ見にはしむ

●山路こえて

みちけわしく行く手通し
こころざすかたへいつかつくらむ
日も暮れなば石の枕
 かりねのゆめにみくにしのばる

●花散り失せては

花散りうせてはたきぎに売られ
 いえまずしければ人にすてらる
誰をかたのみて何かたよらむ
 ただ神(主義)の結ぶ愛の友あり

これらの賛美歌を借りては同志愛を強めたり奮い立たせるような効果があったようです。

●社会党ラッパ節

わたしゃよっぽどあわて者
 蟇口拾うて喜んで
にっこり笑うてよく見たら
 馬車にひかれたひき蛙 トコトットット

(市民曰く)
天下の行動を利用して
不当の暴利を占めながら
尚飽きたらで嘘をつき
値上げすとは太い奴 トコトットット

(会社曰く)
三者合同シタカラハ
モハヤ動かぬ大資本
素直にしていちゃ癖になる
ぐずぐずぬかせばまたあげる トコトットット

この歌などは、庶民大衆の代弁者としての演歌の面目躍如たるものがあります。
(ちなみにフォークシンガーの高田渡が初期にこの歌をうたっていました)

時代は足尾銅山の先駆的な戦いの時でもありました。ここでは詳しい歴史は省きます。また「鉱毒悲歌」は農民運動の先駆的な戦いの歌であり、日本最初の公害反対 闘争の歌として貴重な証言という記録される価値は充分にあると思います。

●革命歌

ああ革命は近づけり
ああ革命は近づけり
起きよ白屋 襤褸の子
醒めよ市井の貧弱児

見よわが自由の楽園を
蹂躙したるは何者ぞ
見よ我が正義の行動を
壊敗したるは何奴ぞ

圧政 横暴 迫害に
我らはいつまで屈せんや
わがえいえいの熱血は
飽くまで自由を要求す(以下略)

この「革命家」は添田唖蝉坊によって6行ずつに組み替えられて旧制一高の寮歌『ああ玉杯』のメロディにあてはめて、弟子の佐藤悟と共に歌い始めたのでした。音楽的にみれば、寮歌が労働運動、革命運動に取り入れられるきっかけを作ったと云う点にあります。寮歌の流行の兆しを民間に感じ取った唖蝉坊の鋭さ功績は評価されてよいものでしょう。この革命歌は明治でもっとも傑出した歌とも言われています。

今日の名言-宮沢賢治

*宮澤賢治ははじめてとりこみました。写真は若い頃のもののようです。


「宙宇は絶えずわれらによって変化する
誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言ってゐるひまがあるか」
(宮沢賢治『宮沢賢治詩集』262より「生徒諸君に寄せる」)
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今日の名言-太宰治

「三七七八メートルの富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。」
(太宰治『富嶽百景・走れメロス』 65より)

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亜蝉坊は「ディアポロ讃歌」で〈欲に限りなき物凄い人は〉と歌い「女心の唄」を「へんな心」として〈株がさがる 株がさがる 小気味よく株がさがる〉と皮肉りましたが、そこには皮相的な社会風刺はみられますが思想性はなく、同時に話題をよんだものはどしどし取り込んでゆくどん欲さを強く感じます。

また、松井須磨子自殺のあとには〈現か夢か亡き君にの〉で始まる追悼演歌をつくり〈この世の名残り劇壇の 名花一輪散り果てぬ〉と賞賛していますが、そこには芸術座の劇中歌への深い関心も読み取れます。
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(松井須磨子です)

さらにまた、資本の集中や成金の排出で賑わいをきわめた花柳界で完成度をたかめてゆくお座敷うたにも目を向け、「ノーヱ節」のメロディにのせて日本全国各地の物産、米食う虫を織り込んだ「お国節」〈武蔵の国でノーヱ 自慢したいはノーヱ 米もつくらず米食う虫けら うようよ住む東京……〉のような作品もつくったし、野口雨情・中山晋平のコンビによる「船頭小唄」が流行すれば「貧乏小唄」〈俺はいつでも金がない 同じおまえも金が亡い……〉、「隠亡小唄」〈俺は焼場のオンボヤキ 同じおまえもオンボヤキ……〉などもつくり、本歌の流行を加速させる第二次使用者としての存在を確立してゆくのです。

こうして昭和を迎え、近代的レコード会社の設立に伴って、いわゆる歌謡曲全盛期があ訪れるのですが、その歴史もまた幸福とはいえない軌跡をきざんでいるといえましょう。

流行歌が時代相に支配されることは当然なのですが、昭和に入り敗戦を迎えるまでの二十年、厳密に言えば十九年弱の時間のなかで生成した歌謡曲は、日本が島国であるという地理的条件のみならず、近代化への急ピッチの施策と戦争と言う閉鎖的状況の中できわめて日本的な独自の内容と形態を持つものになったという考えがあります。

〝流行歌〟と云うネーミングがいみじくも示しているように、時代相をうつし、時代の風潮に制限されるこの大衆歌謡は、流行の波が去るとともに消えてゆく宿命を持っています。それでいながら、時により、不死鳥のようによみがえり、新しいヒットとなることがあるし、また一つのメロディが何よりも生き生きと、過去のある時代の匂いをわれわれに感じさせる作用を持っているとも云えます。

その傾向が歌謡曲(流行歌)というものがもつ本質に根ざしているのではないかと思いますが、次回からその本質とのジャンルについて、考えたいと思います。

今日の名言-芥川竜之介

「恋愛の徴候の一つは彼女は過去に何人の男を愛したか、あるいはどういう男を愛したかを考え、その架空の何人かに漠然とした嫉妬を感じることである。」
(芥川竜之介『侏儒の言葉』 70より)
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